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【馬を知ろうよ!】シリーズ #1 馬と人の歴史
突然ですが、皆さんは「馬」って興味ありますか?
馬って、魅力的な生き物だと感じる人は多いでしょうが、大きくてなかなか馴染みがない人がほとんどだと思います。リアルの馬と出会うことなんて一生ないかもしれません。
でも、ここに訪れてくださったということは、少なからず関わってみたいと思っていたり、もしくはこれから関わる予定があってドキドキしているのかもしれませんね。
ありがとうございます!(笑)
私は、大学で馬術部に所属していて、馬と関わったことで人生が大きく変わりました。そして、私の人生をスペシャルなものに変えてくれた馬についてもっと多くの人に知ってもらいたいと思っています。
そこで、このブログを通して馬に関するさまざまな情報を発信していくことにしました!
これから「馬を知ろうよ!」企画と題して、シリーズ化していきます。
第一回である、今回は「馬と人の歴史」について。
では早速いってみましょう!
人と馬のはじまりって??
旧石器時代というと先史時代、つまり人類が文字を使用する前から人と馬の歴史は交わっていたことになります。
といっても、その頃の馬は狩猟の対象でした。
今でも馬肉を食べる文化はありますが、主流というわけではありませんよね。しかしその頃は、馬の肉が食料の中心になっていた可能性もあるそうです。
明らかな証拠として残っているのは、ラスコーの壁画(フランス)で、1万5000年前の旧石器時代の人類が洞窟に描いていた絵です。そこに描かれた図像から、人々が馬を狩猟の対象としていたことがわかっています。
また、同時期の地層からたくさんの馬の骨が出土していて、人為的に割られたとみられる頭蓋骨や肢骨(しこつ:手足の骨)も発見されていて、この時代の人々が脳や骨髄まで食料の一部としていたと考えられています。
さらに、毛皮や骨などを衣服や住居の素材としても使用していたようです。
その後、1万年ほど前から、ユーラシア大陸の狭い範囲をのぞき、馬は姿を消していくことになります。
馬の家畜化とその利用
馬はその後、家畜化されていきます。
馬の家畜化を示す最古の証拠は、南ウクライナの遺跡から出土した紀元前3500年頃(新石器時代)のものと推定されるハミです。
また、摩滅した小臼歯をもった馬の頭蓋骨も発見されました。この小臼歯の摩滅は、長期間にわたって、ハミが使用されたことによって生じたものとされています。
当時、この遺跡の周辺には多くの野生馬が生息していて、それらの馬を狩猟の対象としていた人々によって家畜化が開始されたと考えられています。
ハミ(銜):馬具の一種で、馬の口に含ませる、主に金属製の棒状の道具。人類が馬の動きを制御するために開発した道具の中で最大の発明といわれる。馬の口の中には、「歯槽間縁(しそうかんえん)」と呼ばれる歯の生えない部分があり、ここに収まるようにハミを入れれば馬がハミを噛むことはない。歯槽間縁の発見とハミの発明が、馬を乗用動物の筆頭とした要因である。
家畜化された馬は当初、その肉や乳を利用するために家畜化されたと推測されています。
しかし、すぐに荷物を背に載せたり、ソリや荷車を牽引させたりする家畜として用いられるようになり、馬のもつ力やスピードによって、ヒトの行動範囲は飛躍的に拡大していきました。
さらに、鉄器が扱われる時代になると、馬車の普及とともに馬の利用は本格化していきます。そして戦争における有力な生物兵器として馬は世界史における主要な役割を担うようになっていきます。
生物兵器としての馬
これ以降の馬の歴史は、戦争、そして帝国の滅亡の歴史とともに歩んでいくことになります。
アジアの騎馬民族ヒクソス人やエジプト王朝、古代ギリシャのローマ、さらに春秋時代の中国など、数多の古代文明において馬の引く戦車(チャリオット)は活躍しました。
家畜化の初期から騎乗の試み自体は行われていたでしょうが、馬に安定して騎乗し、乗り手の意思通りに制御するためには、ハミや手綱、鞍、そして鎧(あぶみ)といったさまざまなな馬具が必要になってきます。これらの馬具が考案され、一般化するにつれ、騎馬の技術は完成に近付き、やがて戦法としての有効性が馬の引く戦車を凌駕していくようになります。
馬具の改良とともに、馬に直接騎乗する技術も向上していきます。
草原地帯では騎馬・遊牧という生活形態が生まれ、日常的に馬と接する遊牧民は、高い騎乗技術を有しました。中世ヨーロッパでは大型で力強いグレート・ホースが生み出されたことによって重い甲冑をつけた騎士がぶつかり合うという戦法がとられるようになり、火器が発明されると身軽な馬が求められるようになりました。
このように生活や文明の進化に合わせて、馬との関わり方も変化していきました。いずれにしても、馬が生物兵器として長く使われていたという事実は変わりありません。
そして、20世紀に起こった2度の世界大戦。
世界を摩耗させたこの戦いは、馬が戦場で不要になったことを証明する戦いでもありました。
軍馬としての役割を終えた馬は、現在は、競馬や馬術といったスポーツだけでなく、人の心を癒すホースセラピーや盲導馬などとしても活躍しています。
日本における馬の歴史
一方、日本では、5世紀から6世紀初頭にかけての遺跡から馬に関連した遺物が多く出土するようになります。
おそらくこの時代に、馬および馬文化が、飼養技術とともに中国大陸から朝鮮半島を経由して渡来したものと考えられます。
大化の改新(645年)以降、軍馬、運輸通信用の駅馬、農耕用の牛馬の管理は厳密に規定されるようになり、国家により直接生産される時代が続きます。その後、律令国家の解体とともに官牧(国家の直営牧場)は衰退しましたが、代わりに私牧が各地に設置されていきます。
中世武家社会でも騎馬は有効な戦力でした。
各地で馬産が盛んに行われましたが、そのうちで一貫して生産地であり続けたのは、現在の青森県東部から岩手県にまたがる南部地方です。
江戸時代になると、徳川幕府八代将軍吉宗が西方から馬を直輸入することに熱心に取り組みました。
吉宗は、幕府直轄の牧を整備し、同時に多くの馬を西方から輸入し、在来馬の改良に努めました。そうした努力のおかげか、この時代に馬は平時の生活の中にも溶け込み、荷物を馬に載せて運搬する輸送法が盛んに用いられたりしました。
その後、日露戦争を経験した日本は、日本軍の擁する軍馬の資質が馬格や力強さの点で近代戦には向かないことを痛感します。そして、第二次世界大戦が終了するまでの約40年間にわたり、輸入馬と国産馬の交配などを進め、その結果国内には純粋な在来馬はほとんどいなくなってしまいました。
競馬の歴史
馬を走らせてスピードを競うということは、家畜化の当初から行われていたと推測されています。
古代オリンピックでは戦車競走が正式種目として取り上げられていましたし、古代ローマでは25万人収容可能な戦車競技場が建設されていて、市民から熱狂的な支持を受けていたとされています。
近代競馬発祥の地であるイギリスでも競馬は古い歴史を持ち、その起源は3世紀頃まで遡りますが、競走馬の改良を目指して本格化するのは17世紀、チャールズ2世の頃からでした。
チャールズ2世は、優美な体型と軽快な運動性を有したアラブという品種に注目し、改良を進めていきます。これ以後の100年間、イギリスはおよそ200頭の中近東産の駿馬を輸入し、競馬は優秀な馬の選抜淘汰の場という機能を明確に持つようになっていきます。
イギリスで生まれた近代競馬は、大英帝国の拡張に伴い、世界各地に広まっていきました。
現在では90カ国以上で競馬が行われ、競馬産業は国際的ビジネスとして確立しています。
一方、日本においても、続日本紀にある「走馬(はしりうま)」や平安中期に多くの神社で「競馬(くらべうま)」などが古くから行われていました。これらは、宗教的や祭事的な意味合いが強く、公には賭け事の対象にはなっていませんでした。
いわゆる近代競馬は、政府の監督下で1906年から行われるようになりました。
その後、運営の主体に変遷はありましたが、1948年に競馬法が、1954年に日本中央競馬会法が公布され、いわゆる中央競馬と地方競馬の開催体を異にする施行体制が確立し、現在に至っています。
次回は、馬の感覚機能について学んでいきましょう!お楽しみに!!!