【義経を乗せて活躍!?】絶滅した在来馬、南部馬の歴史【馬を知ろうよ!】

せシうだ
こんにちわ、せシうだ(@seshiuda6162)です。

(記事を読み始める前にこちらをどうぞ)

皆さんは馬というとどんな馬を想像しますか?

現代を生きる日本人にとって、馬といえばサラブレッドつまり競走馬だと思います。

しかし実は日本には、長い歴史の中でずっと重宝されてきた南部馬という馬がいました。
(南部駒という呼び方もありますが、この記事では南部馬で統一します。)

この南部馬、東北南部地方で飼われていた和種馬で、義経を乗せて活躍するなど日本史に多く登場しますが、すでに絶滅していて、わかっていることが少ない謎に包まれた馬です。

東北に住む管理人が気になって調べていたところ、前回取材させていただいたスポーツ流鏑馬の普及に取り組む小館さんから南部馬に詳しい方を紹介していただき、合わせてお二人に取材することができました。

最初に、今回インタビューに協力してくださったお二方を簡単にご紹介します。

豊川滋さん:南部駒研究会事務局長。南部馬やその他の和種馬に対する愛着と造詣が深く、1998年に知る人ぞ知る名著『南部馬の足跡を訪ねて』を発表。また、流鏑馬草創期から各地の大会で司会進行を務める。

菊池茂勝さん:岩手県遠野市で馬の品種改良増殖及び飼養管理技術の確率に取り組み、馬産振興に大いに寄与。2001年に(社)日本馬事協会より、優良農用馬生産技術賞受賞。2007年に岩手県農事功労賞受賞。1990年より盛岡八幡宮にて射手奉行を現在も務める。

日本の歴史を彩ってきた南部馬について知ることで、日本人と馬の関わり方も見えてきます。
奥深き南部馬の世界をのぞいてみましょう!

目次

南部馬ってどんな馬?

どんな馬??

南部馬は、日本の歴史上、欠かせない馬です。

しかし、前述した通りすでに絶滅した品種で、はっきりとわかっていることは少ないです。

まず、南部馬の特徴として、主にあげられるものに次の3つがあります。

  • 大きい(馬格が良い)
  • 剛脚
  • 気性が良い(扱いやすい、従順)

南部馬は、昔から日本人の憧れの馬として親しまれてきました。

綱絶えて はなれはてにし みちのくの おぶちの駒を 昨日見しかな

(綱から解き放たれて嬉しそうに躍動する、かの有名な「みちのくの尾駮の駒」を、私はついに昨日、この目で見たのです。)

相模/拾遺和歌集

みちのくの おぶちの駒も 野飼ふには 荒れこそまされ 懐くものかは
(噂に名高い「みちのくの尾駮の駒」が放牧されているところを見ましたよ。荒っぽいどころか、随分と人懐こいものでした。)

詠人不知/後撰和歌集

平安時代の歌を二つ紹介しましたが、この頃はまだ南部馬ではなく、「みちのくの尾駮の駒」と呼ばれていました。

南部馬という名前は、南部地方(現在の都道府県では、青森県の東半分、岩手県の北部および中部、秋田県北東部の一角という3県にまたがる広大な地域)の馬という意味です。南部鉄器などで有名ですが、そもそもなぜこの地域を南部地方というのでしょうか?

南部地方は、南部氏が治めていた地方ということでその名で呼ばれています。
平安時代の終わりごろ、平泉の藤原氏を滅ぼした源頼朝は、甲斐の国(今の山梨県南巨摩郡南部町)の牧監(馬政官)であった南部光行をこの地方へ配置したのです。南部家は、現在も続く由緒ある家系です。

南部馬のざっくりとした特徴や由来を説明しましたが、これだけでは十分ではありません。

ちなみに、現在も青森県で飼育されている寒立馬(かんだちめ)という馬に、南部馬の血が混じっているのではないか、という人がいますが、これは間違いの可能性が高いでしょう。

青森県の右端、尻屋崎で見た寒立馬。洋種ペルシュロンの血が入っていて在来馬とは段違いに大きい。

この辺りには、田名部(たなぶ)馬という別の小柄な在来馬が生息していて、南部馬の血が入った可能性は低いと菊池さんはおっしゃっていました。

実際に見れば分かりますが、寒立馬は在来馬と比べるとほとんど外国人のような存在です。とっても大きい!!!
血が混じっていたとしても南部馬の生き残りと表現するのは不適切でしょう。

むしろ、南部馬の血が残っているとすれば、北海道の道産子の方が考えられます。
というのも道産子は、資源調達のために東北から北海道へ渡った人々が、荷物の搬出用に一緒に連れてきた馬をその地に置いていったのが始まりだからです。

ただ、道産子もまた、北海道の地で独立した進化を遂げたと考えられるので、現在生き残っている在来馬から南部馬の姿を想像するのは難しそうです。

そこで、南部馬とはどんな馬だったのか、まずは歴史を辿ってみましょう。

南部馬の伝説エピソード5選

日本史に初めて登場した馬 阿久利黒(あぐりぐろ)

今から1200年前、中央政権である大和朝廷が従えていた範囲は関東以南の辺りまでで、東北地方にはエミシと呼ばれる人々が住んでいました。

朝廷は、貴重資源だった「金」と「馬」を手に入れるため、この地に何度も軍を送り込みますが、エミシの英雄アテルイによって、13年間にわたり阻まれ続けます。

阿久利黒はそんな歴戦の戦士であるアテルイの愛馬で、姿や気性はわかっていないものの、日本史に初めて登場した馬、かつ南部馬でした。

朝廷は、なかなか降伏しないアテルイ軍に、征夷大将軍の坂上田村麻呂を派遣します。

坂上田村麻呂は、アテルイとの直接対決を避け、近隣の族長に物品を贈ったり、食事でもてなしたり、農業技術を教えるなどして関係性を構築。ついには猛者アテルイも懐柔され、自らが所有する馬の中で最も優れた阿久利黒を差し出して、降伏しました。

アテルイの地元である岩手県の水沢競馬場では、かつて阿久利黒賞というレースが開催され、ダイヤモンドカップ・不来方賞と合わせて岩手競馬の3冠と称されました。

先陣争いを制した 生咬(いけづき)

源頼朝が鎌倉幕府を開く前、川を挟んで源氏同士が戦った宇治川の戦い。

対岸に陣を張る木曽軍に痺れを切らした鎌倉軍。そこで、血気盛んな武士二人が、一番乗りの功名を立てようと先陣争いを仕掛け、大河を渡りました。

その先陣争いに勝利したのが、名馬と名高かった南部馬、生咬に騎乗した佐々木高綱でした。

生咬という名前は、その漢字が表す通り、この馬がよく咬みついたことからきています。日本には昔から、荒馬を乗りこなすことが優れていると考える風潮があったそうですが、そのことが名前からも伺えます。

出典:Wikipedia 『宇治川先陣争図』高松市歴史資料館蔵

もっとも、生咬が勝った理由としては、佐々木高綱がライバルの梶原景季を出し抜いたからだという説もあります。
真偽のほどはわかりませんが、こういったエピソードで登場するくらい南部馬が軍馬として優秀だったということは確かでしょう。

義経とともに急斜面を下った 太夫黒(たゆうぐろ)

源平合戦のヒーロー、源義経。
彼が活躍した「一の谷の戦い」では、有名な鵯越ひよどりごえの逆落とし」という一場面があります。

出典:「馬と人」HP

義経は少ない手勢を率いて都落ちした平氏の陣営の近くまでやってきますが、平氏は一ノ谷の峻しい山腹に陣を張っていました。しかし、平氏が、敵は絶対に攻めてこられないだろうと踏んで背にした断崖絶壁を、義経が乗る太夫黒は駆け下り、奇襲に成功したのです。

太夫黒には、もう一つ、有名な逸話があります。

源平合戦も終盤となる屋島の戦い。

この戦いで、義経の身代わりとなって矢を受け、亡くなった家臣がいました。佐藤継信というこの家臣の死を義経は大層悲しみ、彼を手厚く弔うために、愛馬である太夫黒を寺に寄進したそうです。

太夫黒はしばらくこの寺で飼われていましたが、ある日突然姿を消し、人々が探したところ、継信の墓の前で見つかったそうです。前夜からの雨で弱っていた太夫黒は、僧侶が首を撫でると、ハラリと涙を流して息を引き取りました。

これが「太夫黒の涙」として知られる話のあらましです。

馬術の名手だった義経の愛馬、太夫黒。
義経は、この馬のことを「天下の名馬、みちのく産に過ぎるものはなし。みちのくの良馬、この馬に及ぶものなし」と絶賛したといいます。

明治天皇に愛された馬 金華山(きんかざん)号

東北巡回中の明治天皇の目に止まり、買い上げられた金華山号。

体高が特別大きいわけでもなく、毛色も栗毛で美麗ではありませんでしたが、怜悧(れいり)沈着で物事に動じない気性が天皇に愛されたそうです。

出典:「馬と人」HP

本当かはわかりませんが、金華山号には以下のようないくつもの逸話があります。

  • 騎乗するために陛下が近づくと必ず敬礼の姿勢をとった
  • 周囲の馬が興奮状態にあるような時も動じず、突然の砲声や小銃の音にも驚かなかった
  • 橋を渡ろうとしないので調べたところ橋台が朽ちかけていて、急ぎ修理すると素直に渡った

御料馬(ある目的に使用する馬)は他にもいましたが、明治天皇はことさらに金華山号を重用し、16年間で130回も公務に用いたと言われています。

日本のプライドを守るも忘れられた名馬 盛(さかり)号

南部馬を調べていけば、必ず出てくるといっても過言ではない盛号。
体高151㎝と、在来馬としてはかなり大きかったそうです。

出典:岩手競馬HP

盛号を一躍スターに押し上げたのは、明治18(1872)年に東京の不忍池で催された日本初の洋式競馬。
サラブレッドなどの並み居る外国産馬を寄せ付けず優勝し、翌年には二連覇を成し遂げました。

往年の華々しい活躍とは裏腹に、晩年の盛号は岩手に移り住み、貨車の入れ替え作業に従事した盛号。
明治37年に32歳の天寿を全うしました。

ところで、皆さんは横浜にある「馬の博物館」をご存知でしょうか?
この施設の展示の中に、馬のブロンズ像が9体並んでいます。

そのうち、8体は現存する在来馬で、最後の一頭は絶滅した南部馬です。
他にも、たくさんの絶滅した在来馬がいた中、南部馬がその並びに展示されているのは、日本の歴史をつくってきた馬だから。

そして、この南部馬像のモデルこそが盛号なんだそうです。

盛号は最後の飼い主により懇ろに弔われ、その骨格は教材として使ってもらうために盛岡農業高校へ寄贈されました。
現在も同校に安置されています。

歴史上最後の南部馬である盛号は、晩年こそ使役馬としてひっそりと亡くなりましたが、たしかにその姿が後世に残されているのです。

歴史から見えてくる南部馬の姿

こういった歴史に残るエピソードから、南部馬はどんな馬だったと推察することができるでしょうか?
菊池さんのお考えをふまえて、まとめてみました。

①主人に従順

南部馬の気性が良いことは前述しましたが、実際の戦場でのエピソードからも、主人である乗り手に忠実に従ったことが伺えます。荒々しいだけの馬であれば、乗り手にも反抗的ですが、乗り手の安全は脅かさずに、向かってくる敵に対してのみ攻撃的であったのであれば、戦場で重宝されるのも頷けます。

②豪胆で思い切りの良い性格

気性が良かったとされる南部馬ですが、危険な戦場で活躍するくらいですから、非常に豪胆(度胸がすわっていて、ものに動じないこと。肝が太いこと。また、そのさま。)であったことも伺えます。

③柔軟でO脚気味な後脚

「鵯越の逆落とし」のエピソードから、急な下り斜面を駆け降りることができる脚を持っていたことが分かります。

つまりどういうことかというと、斜面に脚をついた時に、突っ張るような着き方をするのではなく柔らかく踏み込むような着き方をしたのではないかということです。そのためにはおそらく、繋(つなぎ)と呼ばれる蹄のすぐ上の部位が柔らかい必要があったでしょう。

また、X脚よりもO脚の方が立つときに不安定になりません。

これらはあくまで推察であり、正しかったとしても全ての南部馬に当てはまる訳ではありません。ただ、日本の歴史をつくってきた南部馬がどんな馬だったのか考えるときに、こんなふうにより具体的にイメージすれば理解が深まるかもしれませんね。

なぜ南部馬は大きかったのか

南部馬の特徴の一つに、馬格の良さ、つまり大きいというものがありました。

日本の在来馬は、140㎝台前半、もしくはそれ以下のものが多かったにもかかわらず、南部馬は140㎝台後半もしくは150㎝に届くものもいたと言われています。明らかに頭一つ抜きん出た存在でした。
(現存する在来馬の体高については後述しています。)

なぜそんなに大きかったのでしょうか?

菊池さんは、異国との馬の交配が行われていたのではないか、と考察されます。

南部地方は、日本の中では北の外れ。
正史に残っていないところで異国との交流があってもおかしくありません。

南部馬の馬格について、本当のところは結局わかりません。
突然変異的に大きな個体が生まれたのかもしれませんし、北の寒い地で放牧されて過ごした結果、強い=大きい個体が生き残ったのかもしれません。

ただ、明らかに他の在来馬とは一線を画す大きく丈夫な身体に、日本人が心を奪われてきたことは間違いないでしょう。

南部馬はなぜ絶滅したのか

日本人に愛され、気性もよかった南部馬はどうして絶滅してしまったのでしょうか???

それには、近代における世界戦争が関わってきます。

馬の形をした獣

1900(明治33)年、義和団事件という出来事が起こります。

義和団事件:清時代末期の中国で、「清をたすけて洋を滅ぼす」という意味の「扶清滅洋(ふしんめつよう)」というスローガンを掲げていた秘密結社「義和団」の外国人やキリスト教への排外活動を清の西太后が支持し、日本やロシア、欧米諸国に宣戦布告したことで、国家間の戦争へと発展。8ヶ国連合軍(日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリー)の戦力約7万に対し、清国は20万人以上の兵士を有していたが、開戦からわずか2ヶ月で北京を制圧された。

そこで日本軍は、欧米諸国と共同戦線を張って清(中国)と戦ったのですが、騎兵に関して「小さい馬が多い」「隊列が乱れるときがある」「馬の気性が荒く輸送に時間がかかる」など散々な評価を受けました。

「日本人が乗っているのは、馬の形をした獣だ!」

そんな厳しい状況の中で日露戦争が勃発し、日本は当時世界最高水準といわれたロシア帝国のコサック騎兵と戦うことになります。

司馬遼太郎著『坂の上の雲』でも有名な秋山好古少将率いる支隊が、機関銃などを駆使した戦法によりなんとか撃退に成功したものの、多くの部隊で苦戦を強いられます。そして、日本の軍馬の貧弱さが露見するような報告が次々と上がるようになりました。

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こうした流れを受けて、日露戦争以降、本格的に軍馬の改良を進めていくことになります。

日本の馬は劣っていたのか?

現代において、日本の在来馬は諸外国より劣っていたという評価がされますが、この表現は正確ではないかもしれません。

日本は急峻な山地が多く、農村で活躍した馬たちはそういった土地で力強く、かつ小回りの利いた動きが求められました。

一方、諸外国では、平らな土地を長距離走る馬が重宝されます。

近代における戦争は、ほとんどが日本本土以外での、いわゆるアウェイ戦です。
日本で生まれ育った馬たちが、その土地に適さないのは当然といえました。

赤紙」で徴兵された人間と同じく、馬にも召集令状があり、「青紙」と呼ばれていました。馬が貴重な労働力だった農村では、手綱を引き盛大に見送られたそうです。

国内最大級の軍馬補充部 三本木支部

押し寄せる軍馬増強の声を無視するわけにはいかず、日本は軍馬の改良を進めていくことになります。

下の地図を見てください。
ちょうど、馬蹄(ばてい)形に、一戸から九戸までの集落があり、その真ん中あたりにあるのが、現在の十和田市です。

昔は三本木町と呼ばれていました。
三本の木が立っていることくらいしか、特筆することのない土地だったからだそうです。

青森県に5つ、岩手県に3つある「戸(へ)」の付く地名は、厩(うまや)の戸という意味で、南部藩が馬の生産地で官営牧場を九つの区画に分けて管理していた名残。四戸(しのへ)のみ、縁起が悪いとされ、現在地名としては残っていない。

この辺りは、稲作にも畑作にも適していませんでしたが、冷害やませのおかげか海水のミネラルをたっぷり含んだ牧草が育ち、その恩恵を頼りに人と馬がひっそりと暮らしていました。

そして三本木は、(一戸から九戸の)各馬産地との距離も近く、新たに軍馬補充部をつくって、その運営のためにさまざまな職業の人を集めて町を形成していくにはちょうどいい土地でした。

ここで、近代戦に適した、強く大きな馬を生産していくことになります。

十和田市に獣医学部のキャンパスを持つ北里大学は、三本木支部に集められた2000頭の馬を診る獣医が必要となったことでこの地に縁を持ちました。人手を増やすため、地元の農学生に獣医学を教え始めたのです。

在来馬が交配により次々に絶滅

日本の在来馬のうち、現在も残っているのは以下の8種類です。

馬種地域頭数(頭)体高(㎝)備考
北海道和種(道産子)北海道1,029125〜135
木曽馬長野県木曽地域131133〜136長野県天然記念物
御崎馬宮崎県都井岬116100〜120国の天然記念物
対州馬長崎県対馬40110〜130
野間馬愛媛県今治市野間50110〜120今治市天然記念物
トカラ馬鹿児島県トカラ列島125100〜120鹿児島県天然記念物
宮古馬沖縄県宮古島43110〜120沖縄県天然記念物
与那国馬沖縄県与那国島120110〜120与那国町天然記念物
出典:農林水産省「馬をめぐる情勢」令和2年5月、体高は「みんなの乗馬」HPより

各保存団体からの報告をまとめると、現在日本に残っている在来馬は、1,654頭となります。

日清・日露戦争で自国の軍馬の能力に危機感を覚えた日本は、前述した軍馬補充部などの施設で馬の改良を行っていきます。

具体的には、在来馬のメスと外国産のオスを交配させ、在来馬のオスは去勢させました。
こうして、江戸時代末期には推定40万頭いたとされる在来馬は、どんどん減っていくことになります。

表からわかるように、現存する在来馬は、とても辺鄙な場所に生息していたものばかりです。

調査をする役人が訪れることがなかったり、地域の住民によって守られた結果、在来馬の中ではマイナーだった品種だけが生き残るという皮肉な結果になりました。

木曽馬などは、特殊な交配方法により、少しずつ頭数が回復してきましたが、全体としては絶滅が危ぶまれているものが多く、また、現在の日本では在来馬の活用方法を確立させることも課題となっています。

こうした、いわゆる在来馬狩りには、現在も1,000頭以上残っている道産子も対象に含まれていましたが、道産子は北海道の人々の奇策で生き残ることになりました。
役人が調査にくると、道産子たちを秋田県の男鹿半島に馬を送り、役人が本土へ帰っていくと道産子も北海道に戻す、という隠蔽工作を行っていたのです。
明るみになれば、重い罰を受けることがわかっていたのに、こんなに大胆な行動を起こしたというのは、北海道の人たちにとって馬がどれだけ大きな存在だったかを窺い知ることができますね。

南部地方の人々にとっての馬

明治時代、軍馬を増強するために在来馬の雄馬の去勢が行われましたが、これが実行されるようになるには時間がかかりました。馬主たちの間に、去勢に対する抵抗感があったからです。

西洋医術と同じように、馬に関しても、江戸時代には去勢技術自体は伝わっていました。しかし日本人はそれを選びませんでした。

日本人の馬との付き合い方をみていくと、「人に馬が合わせる」のではなく、「馬に人が合わせる」という価値観があったことが窺えます。人間ができないことをやってくれる、大きな働き手である馬に対して、家族と同じように接し、大切にしてきたのです。

特に南部地方では、古くから馬と生きてきたこともあり、その傾向が強かったのかもしれません。

南部曲がり屋は愛の証?

古くから馬産地であり、人と馬がともに暮らしてきた南部地方では、馬を家族同様の扱いとし、いつでも目が届くように主屋と馬屋を棟続きにする「南部曲がり屋」という家屋が発達しました。

出典:いわての文化情報大辞典HP

かまどの煮炊きの暖かい煙が馬屋を通って煙り出しから出ていくなど、冬の寒さから馬を守る工夫も施されていました。

人が住む区域と厩(うまや)を分けないこの構造は、馬を大切にする南部人のこだわり、そして愛が感じられます。

ちなみに、当サイトでも紹介した、岩手県釜石市でホースセラピーに取り組む黍原さんは、築90年以上の南部曲がり屋の古民家で活動されています。インタビュー時に伺いましたが、とても素敵なお宅でした!

何もないからこそ馬は宝物

前述した通り、南部地方は、稲作も畑作もできない寒く貧しい土地。
なんとか細々と農業を営んでも、豊作になることはほぼありません。昔は3年に一度は凶作、そうでない年も十分な食料を確保することができないのは当たり前でした。

そんな土地で、南部馬は唯一の財産といえる存在。

だからなのか、他の地域と比べても、馬はことさらに大切にされたそうです。
次のようなエピソードが残っています。

  • 出産直後の母馬には、人間と同じように干し菜汁を飲ませて看病した
  • 冬場は足が滑らないように草鞋を履かせた
  • 子馬に胴巻を付け、強い日差しやアブから守った

干し菜汁:「干し菜=大根の葉を乾燥させたもの」を味噌汁に入れた、東北南部地方の郷土料理。

家族同然の存在である馬を守るために、貧しい中でもできる限りの工夫を凝らした南部地方の人々の愛情が感じられます。

何もないからこそ、人々にとって馬は宝物だったのかもしれません。

「お馬さん」と日本人

とても長い記事になってしまいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

最後に一つ、日本人と馬の関係がよくわかる言葉を紹介させてください。

「お馬さん」

皆さんも使ったことがある言葉だと思います。
単に「馬」ではなく、親しみなのか敬意なのか、なぜそう呼ぶようになったのかもわかりませんが、私たちはこう呼びますよね。

でもよく考えてみると、他の動物に対しては使わないんです。

「お犬さん」「お猫さん」「お牛さん」「お鳥さん」、、、

なにか違和感がありますよね。
基本的に日本人が「お」をつけて呼ぶ動物は馬しかいません。

日本人にとって、馬は昔から特別な生き物でした。
ただの家畜、ただの財産、そうかもしれないけれど、歴史を紐解けば、「お馬さん」がどれだけ大切な存在だったかがわかります。

実は日本各地に馬にまつわる場所があったりします。
もしこの記事を読んで、馬に興味を持ったり、さらに知りたいと思った方がいらしたら、探してみると面白いかもしれませんよ。

最後になりますが、取材に協力してくださった豊川さん、菊池さんに深く感謝いたします。本当にありがとうございました。

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この記事を書いた人

はじめまして、管理人のせシうだです。
好きなことは馬と農業です。

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